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近視矯正手術
Q&A


RKPRKニュース No17

20周年特別号

20周年を迎えて

当院は1983年に屈折矯正手術の専門医療機関として創立されました。屈折矯正手術は角膜表面をコンタクトレンズ状に形成させて、近視、乱視、遠視状態を除去、あるいは軽減させる手術です。

当院創立に当っては、開設者として、又、近視、乱視を持っていた患者代表として手術の安全性と、その効果の確認に最大の注意を払いました。

先ず私自身及び、家族10人が施術を体験しました。当時は身を挺して証明せねば眼科医に受け入れられなかった風潮が存在していました。

この度、お蔭様で当院は近視手術のパイオニア医療機関として20周年を迎えました。

この20年間は私自身の主治医でもあり恩師でもある、モスクワ顕微手術眼科研究所、フィヨドロフ博士と伴に歩ませていただきました。博士は白内障手術の眼内レンズを世界に先駆けて開発されました。近視手術としての佐藤式手術をとして完成し、現在世界中で広く行われている近視手術の礎を築いたのでした。博士の研究所は、眼科総合病院で6百床を有し、12の付属病院をロシア全土に展開しています。

博士に師事させていただいたことにより、1995年には眼科屈折矯正学で博士号を、1996年には眼科専門医(露)の資格を得ることができました。

20006月、博士は不慮のヘリコプター事故で帰らぬ人となりましたが、博士の研究所はフィヨドロフ研究所として遺志を受け継ぎ、世界で一番の眼科病院として世界各地より多くの患者さんを受け入れています。

当クリニックでも、円錐角膜で角膜移植適要の患者さん等の治療をお願いしています。

さて、当クリニックの近視手術症例は 18千余となりましたが、幸い失明等の重篤な例は皆無です。日本の近視手術も大変普及し、現在200件もの眼科医療機関が屈折矯正手術に取り組んでいます。近視手術が我国においても定着しつつある現状に感慨無量です。視力向上を通じ、職業選択の幅を広げるため、近視手術一路20年を迎えました当院に、益々の御指導と御声援をお願い申し上げます。

平成15年吉日
参宮橋アイクリニック五反田
院長 医学博士 奥山公道

「参宮橋アイクリニック20周年おめでとう」

ロシア・フィヨドロフ研究所  所長 医学博士K・タフチジ

 親愛なる奥山先生をはじめとする、参宮橋アイクリニックのスタッフ及び、クリニックで治療を受けられた皆さん、私と奥山先生は共通の師であるフィヨドロフ博士によって友情と信頼の関係を恩師の亡き現在に至っても持ち続けています。

20年の歳月が経過しましたが、これからも眼科屈折分野を中心に、より良い治療の実践を目標に共に歩みましょう。

フィヨドロフ研究所の6000名のスタッフは、眼科学研究の基礎面から参宮橋アイクリニックを応援します。20年を迎えられる貴クリニックへのお祝いの言葉とさせていただきます。

ポズドラブラーユ! おめでとう!


屈折矯正手術の夜明け

財団法人 臨床眼科研究所

理事長  百瀬 皓

角膜を切開して眼の屈折度を変えようとの試みは、1898年オランダのドクター・ランスが兎の眼を使って行ったことが現在まで記録に残っている。人間の眼で始めて近視の手術を行ったのは、順天堂医院(後の順天堂大学)の佐藤勉先生(後の教授)である。佐藤先生は193682420歳の女性の極めて興味深い症例を診察した。

この患者さんは数年前から遠方が十分見えなくなり、近視と言われて「眼球を圧迫すると近視が治る」と聞いて、眼球に指圧を加えていた。初診の4日前昼寝から覚めてみると、右眼の視力が著しく低下して、ほとんど明かりしか判らなくなり,角膜が白くなっていた。

診察すると右眼は横から眺めると中央が突出して、一見して円錐角膜であることが判る。今の知識で言えば、円錐角膜が白く混濁するのは角膜の浮腫であるが、佐藤先生は円錐角膜末期のデスメ氏膜破裂、白斑形成と診断した。また現在の眼科知識では、円錐角膜の角膜浮腫は、放置しても数週間で吸収することが判っているが、佐藤先生は一生懸命この患者さんの眼を治療した。角膜浮腫が吸収するとともに、細隙灯でデスメ氏膜に横一線の破裂があることが判った。当時の多くの眼科医は懐中電灯か電灯の光をルーペで集光して診察していて、こんな小さな変化は見えなかったが、佐藤先生は細隙灯を使うことが出来た。順天堂は設備がよく、彼は恵まれていた。角膜浮腫は次第にうすく小さくなり、5週間目には殆ど一本のうすい濁りを残すのみになり、視力は裸眼で0.6まで回復し、円錐も著しく低くなった。

彼はこの患者さんの眼にヒントを得て、人工のデスメ氏膜破裂を作れば、円錐角膜は治癒するであろうと考えた。彼は高田商店に命じて後に佐藤氏刀と言われるようになった細いメスを作り、これを角膜の周辺部から眼の前房の中に刺入して、円錐角膜頂部の後面に切開を加える手術を考案し、1939年昭和14年日本眼科学会雑誌に「円錐角膜の治療法

余のデスメ氏膜切開手術に就いて」として成績を報告した。

佐藤先生の手術は角膜後面切開で始まった。

1943年から彼はこの手術を乱視の矯正に応用し、1951年から近視の矯正にも応用した。佐藤先生は、1944年順天堂が医学専門学校に昇格すると初代眼科教授に就任し、1947年順天堂は医科大学に昇格し教授を続けた。佐藤教授の初期の近視矯正手術は放射状角膜後面切開術であったが、その効果が不十分であったので彼は後面切開に前面切開を加えた。すなわち彼の手術は、角膜後面切開で、円錐角膜、乱視、近視の順で適応をすすめ、最後に前面切開を加えた。彼は日本にコンタクトレンズが出現し、近視の手術が必要なくなった1959年まで、順天堂で681眼の近視を手術した。 この頃、何人かの医師が佐藤教授の方法に従って手術したので、日本中では合計1000眼ぐらい佐藤式放射状角膜切開術が行われたようである。佐藤教授は時の変遷とともに術式を改良した。最終的な術式は瞳孔領を6ミリとり、角膜輪部6ケ所から佐藤氏刀を前房に刺入して5条の角膜後面切開を行い、さらにトラコーマの顆粒をつぶすための岡村氏刀を改良した改良岡村氏刀で20条の角膜前面切開を加える方法であった。

佐藤教授は語学に優れていた。彼はこの術式を紹介する論文を日本語で発表するとともに、戦前はドイツ語で、戦後は英語でいくつもの論文を発表している。一時は彼の術式は世界に知られた。

佐藤教授は196069日歳で心筋梗塞のため急逝した。佐藤教授の死の翌年、彼の手術後、水疱性角膜症の最初の報告があり、その後彼の手術の約20%が水疱性角膜症を発症し、角膜移植を必要とするようになった。これは角膜後面の切開をして、角膜の透明性を保つために必要な角膜内皮を傷つけたためである。

この手術は佐藤教授の死去とともに、一時忘れられたようになっていたが、その後旧ソ連のフョードロフ教授が、喧嘩をして眼鏡レンズが壊れて角膜を傷つけた少年の近視が、角膜の傷が治るとともに治癒したことにヒントを受け、佐藤教授の論文を研究して、現在の角膜表面だけを切開する放射状切開術を開発したことは周知のことである。

その後A-K、そしてLASEKなどいくつもの屈折矯正手術の花咲く時代が到来した。

近視手術との出会い

 日本RKPRK友の会 代表 須田八重子

参宮橋アイクリニックが開院して早20年を迎えることになり、今や多数の方々が手術を受けて喜んでおられると思います。

 私の近視手術との出会いはテレビでロシアの病院内で、ベルトコンベア−が回転しながら手術が行われているのを見たときでした。

中学校時代よりずっと眼鏡の生活でしたので、眼鏡が外せたらどんなに良いかと思っていたところ、手術で近視が治るとのこと、驚きとうれしさでいっぱいになりました。

でもロシアまで手術に行かなければならないと思っていたところ、近所に奥山先生が住んでいらして、眼鏡をかけているはずの先生が、眼鏡をされていませんでした。

先生はロシアの大学を卒業されており、もう当時15年以上も前よりロシアでは手術が行われていて、ご自身を始めご家族の方々も、安全性を確認した上で手術を受けられたことをお聞きしました。

そして日本で病院を開院されると聞き、早速手術をしたいと思いましたが、「現在は眼鏡によって見えているのに、もし手術によって見えなくなったら・・・。」と不安な気持ちもありましたが、勇気を出して手術をすることに決めました。

手術は現在のレーザーを使うPRK手術ではなく、ダイヤモンドメスを使用し、角膜に切り込みを入れていくRK手術でした。

手術は術前に点眼麻酔を用いるので痛みは感じませんでしたが、眼だけに精神的にとても怖く、看護婦さんの手を手術中握りしめていました。

手術後はそのまま家に帰り、いただいた睡眠薬を飲み眠りました。翌朝は、まつげが5本位目の中に入り、ごろごろした感じで涙があふれ出ましたが、もうその次の日にははっきりと物が見えました。特に遠くに見える木の葉がとてもきれいに見え、感動したのを覚えています。

 私の実感として、手術をして良かったという思いがあふれ出て、会う方々にこのうれしさと手術の素晴らしさを伝えて参りました。

 手術後19年経って、今は見えるのが当たり前になりました。又、その後手術をなさった方も大変多くなり、タイガー・ウッズも手術により大活躍しているようです。今はレーザーの技術の進歩により、何の不安も無く安心して手術を受けることが出来るようになったと思います。日本人の55%が近視だそうですが、「めがね・コンタクトレンズよ、さようなら」する方が年々増えるでしょう。今、第2の人生に向かって歩いております。奥山先生がアイクリニックを開院して下さり感謝しております。今後の御発展をお祈りすると共に、御活躍を楽しみにいたしております。


女子ボクサーとレーザー手術

YNさん(24歳)

手術前、両目とも0.02程で近視と乱視を持つ私の目は、一日中コンタクトを放せない生活を送っていました。

そこでレーザー手術を受けることを決め、一般的に知られている近視レーザー手術(LASIK)について調べ、眼科を訪ねました。しかし、現役女子ボクシング選手である私にとって、角膜を削り、レーザーを当てるLASIKは不適切だと言われ、他の手術方法がないか調べていたところ、奥山先生のNEWPRKと出会うことができました。NEWPRKであれば、ボクシングなどの過激なスポーツをしても、角膜に問題が生じることはないと知り、こんな魅力的な手術があるのだと感動し、すぐに資料を請求しました。

数日後、手術の事について分かりやすく書かれている本が届き、それをくまなく読み返しました。手術の良い点、心配な点も細かく説明されてあり、手術の事に無知で不安だった私を理解させてくれるものでした。

 無事、手術を受けることができ、23週間後には両目1.5という、自分でも信じられないほど視力が回復していました。一番それを感じた時は、外に出て遠くの車のナンバープレートがクッキリ見えたときでした。あまりの嬉しさに、何度も片目ずつ確認をしました。また、ボクシンでは、今までにはなかった視力という武器を持ち、3連勝という成績を残すことができました。以前までは、裸眼で物が見えなかったことを思い出せたのですが、今では物が見えなかったことを思い出せないくらいです。これからも目を大切にしていきたいと思います。

奥山先生、看護婦さんに感謝いたします。ありがとうございます。

10年来の夢

OKさん 29歳 ダイビングインストラクター

20027月、大阪にて手術を受けました。

近視が治る事を知ったのは、10年程前でしょうか。奥山先生が書かれた本を母が買ってきたのが最初です。当時は手術自体まだマイナーでしたし、「切るのは怖い」という感想で終わっていました。反面、治るなら何とかしたい気持ちもありました。

私は幼い頃、斜視の手術を受けています。初めてコンタクトを購入したとき、乱視が強いので、ハードコンタクトレンズは試しましたが、入れると同時に充血してしまったのでソフトコンタクトレンズにしました。それでも、ソフトは黒目より大きめにできていて、白目部分の手術跡にレンズが触れるので、できればコンタクトはしないほうがいい。と言われていました。そして、「他の人より目が弱いのだから、何かあったらすぐ外すように。」と。しかし、コンタクトが日常で当たり前になり、しかも年頃になると眼鏡はちょっと…。朝起きてから帰宅するまで毎日15時間程、丸1日以上装着することもあり、当然目は充血したり乾いたりレンズがずれたり、時には痛みを感じることも増えてきました。

 そしてあるとき、いつものようにコンタクトレンズを作りに行くと、「角膜炎になりかけているからレンズを出すわけにはいかない。」と言われ、半月ほど目薬での治療をしました。

ダイビングをしますが、これもコンタクトレンズだと厄介です。マスクの度付きレンズも売られていますが、マスクを外すと何も見えなくなってしまい、船上では危ないので結局コンタクトをして潜ることになります。でも、もし水中でレンズがずれたり、マスクが外れたりしたら…?幸い、そういったことはありませんでしたが非常に危険です。せっかくの旅行も常に目のことを心配しながらなので、完全に楽しむことはできません。

去年、知人を訪ねてハワイのマウイ島に行きました。アメリカでは、LASIK法がメジャーで、家のポストにも広告が入ってくるほどなので、気軽に受ける人が多いようです。値段も日本の1/21/3ほどです。痛みも無く、数時間後には見えるようになるというので、マウイ島のダイバー達は手術翌日から仕事で潜っているとのことです。ただ、受けたうちの一人はドライアイがひどく、朝、渇きで目を開けられないのでスプレーの水を顔にサッとかけて目を覚ますと言っていました。また、早い人は30代から老眼が始まるというので、それだったらせっかく受けても最悪の場合、数年ではあまり意味がないと思いました。しかも、やはり「切る」ということことに抵抗がありました。

日本でも手術法は知りませんが治した友人がいて、彼女は痛みが激しく、3日間大暴れしたと言っていました。それでも「受けてよかった」と言います。

そして、次にネットで調べ始めるようになりました。ほとんどがLASIK法で、値段もまちまちです。この方法しかないならこの中から選ぼうか…と思っていたら、ネット上で、奥山先生に再会したのです。しかも、切らなくていいとなると行ってみる価値はあると思い、いてもたってもいられず、すぐ検査の申し込みをしました。

不安材料は2つ。斜視の手術を受けていること。角膜炎になりかけたことです。角膜に傷があると手術が受けられないと聞いたことがあったので、その場合、諦めるしかありません。結果、手術を受けることはできる。ということでした。

10年来の夢が叶った、と言っては大げさかもしれませんが、とにかく、「早く治したい!」という気持ちが高まりました。検査に行き、多少の不安はありましたが、先生は私の質問攻めにも丁寧に答えて下さったし、いいことばかりを強調するようなこともなかったし、その先生もご自身も手術を受けられたとのことだったので、「信じてみよう」と思えました。ここでやらないとまた何年もやらずにおわり、また面倒な日々が続きます。「23日つらいのを我慢すれば一生楽になれる」と思えば痛いのも耐えられるような気がしたので、勢いが大事と思い、「1番早い手術日はいつですか?」と質問して、逆に「もっと考えたほうがいいですよ。」と言われてしまいました。でも、早まる気持ちを抑えきれず、翌日には2週間後に大阪まで行く予約をしていました。片目ずつでもできるそうですが、大阪まで2度も行くのは大変だし、痛かったら片方は「やりたくない」と言い出しそうだったので、両目いっぺんに受けることにしました。

前の人の様子を見ていたら、髪の毛が燃えたときのような焦げ臭い匂いがしてきました。そこで初めて自分がとんでもないことをしようとしている気がしましたが、逃げる間もなく、すぐに自分の番になってしまいました。診察台に上がり、器具で両目を見開いて、レーザーから目を反らさないように言われたので、必死で緑色の中の赤い光を見つめました。実際は数十秒なのでしょうが、思っていたよりも時間が長く感じましたが、無事、終了しました。緊張で喉はカラカラです。手術中の痛みはないとのことでしたが、私は少しチリチリした感じはありました。

40分後位から痛み出すため寝てしまうのがいいというアドバイスを聞いていたので、母にしがみ付きながら近くのホテルまで行き、軽く食事をし、薬を飲んですぐベッドに入りましたが、眠りにつけないまま軽い火傷のときのような痛みが始まりました。しかし、痛み止めを注してみると全く痛みは消え、すぐに眠っていました。手術3日後にもなると痛みもなくなり、ゴロゴロとした異物感だけになっていましたし、目を覚ますたびに視界が開けていくので、感動の毎日でした。とはいっても、どこまで視力が伸びるか分からなかったので、今日、ここでストップしたらどうしよう・・・と正直、不安もありました。遠くから見えるようになるので、しばらくは手元が見えづらかったのですが、それも解消され、今となっては、その時は何を不安に思っていたのかというくらい、すっかり見えるようになりました。術後すぐ見えるようになるよりも、しだいに見えてくるほうがありがたみがあるので、私はスーパーPRK手術で正解だったと思います。もちろん、ドライアイにもなっていません。そして、私があまりにも「見える、見える」と言うので、私のことを実験台呼ばわりしていた周りの人達もみんな受けたいと言い出しています。(でも、まだ怖いと一歩踏み出せないようですが)

 本当に、思い切って受けて良かったです。むしろ、なぜ、もっと前に受けなかったのか?というほどです。長年の煩わしさから開放された今、もっといろんなことに挑戦していきたいと思っています。

友人が手術を受けて

水頭 純一 23歳 学生

僕がNEWPRK手術を知ったのは、友人が手術を受けて視力が上がった話を聞いたときです。

大学で同期の友人が、就職活動が終わったため手術を受けたことを聞き、内心びっくりしたし、反面とてもうらやましく感じました。そして僕も就職活動がひと段落し1ヶ月ほどたった後、友人に詳しく話を聞き、参宮橋アイクリニックの門をたたきました。

 自分でも視力が相当悪いだろうと思っていましたが、説明を聞くうち「ここまで悪かったのか」と落ち込みたい気分にさえなりました。両眼ともただでさえ近視だけで‐10ジオプター以上あるのに、それに加えて乱視もかなり強い、手術はおそらく2回に分けて行わなければならない旨を聞き、当日はがっかりして家に帰り考えました。そして高校時代からコンタクトレンズを作ってくれている眼科の先生にも相談しました。その先生は、「長期にわたるハードコンタクトレンズの使用で相当眼の角膜に負担がかかっており、眼鏡を抜きにして、角膜に対するリスクを考えれば、手術のほうが少ないのではないか」といわれました。また様々な病院のホームページも見てもらい、参宮橋アイクリニックでの手術も賛成してくれました。自分も眼鏡のことは一瞬考えたのですが、強い近視と乱視のためにレンズ代は非常に高く、スポーツや仕事での機動性も考え、手術を受ける決心がつきました。

手術は月の冬休み中に1週間間隔を空けて行いました。先生と相談し、回目の手術では視力としてはそれほど出ないかもしれないが、2回目も考えて角膜に負担のかからないような手術をお願いし無事終了しました。手術は、検査や手術の説明などと比べると、本当に瞬時の出来事でした。手術室に入り、出てくるまで3-4分だったと思います。手術後家に着いたころから麻酔が切れたらしく、コンタクトレンズで眼に傷をつけてしまったような痛みが始まりましたが、もらった痛み止めの点眼薬をさすと、瞬時に痛みは治まり、睡眠導入剤で翌朝までぐっすり眠れました。

翌日から3日ほどはうすぼんやりと物の輪郭がわかる程度で、もう片方のコンタクトレンズをしている目で生活できるので問題ありませんが、両眼とも手術をすると一人で生活するのはきついと思います。4日目くらいからかなりはっきり見え始め、1週間後検査に行ったときは0.7と言われました。通常の人だとまだ遠視状態なのだそうですが、ぼくは強度の近視で2度の手術予定のため、もう割りと近くの見える目になっていました。術後3ヶ月経って、視力は0.4、最近の6ヶ月検診では0.3と予定通りの経過をたどっています。

といっても裸眼でこれだけ見えるのは小学校時代以来であり、日常生活では全く何の問題もありません。運転時や、夜間の仕事で多少弱めの眼鏡が必要なくらいです。最近では「もうこのままでもいいかな」と感じるくらいです。

でもせっかくですから、今年の冬休みに2回目の手術をお願いして、友人がどれほどのものが見えるのかを体験したいと思っています。先生をはじめ、検査技師の方々にはまたお世話になりますが、よろしくお願いいたします。

うれしい悲鳴

西畑 毅  看護学生

皆さん初めまして。僕は現在、看護学校の2年生です。1年生の冬休みにNEWPRKの手術をしました。まず心配したのが、合併症でした。他の術式と違って安全なのか?そして失明することはないのか?などです。NEWPRKはメスを使わない手術で、PRKLASIKとも違うことを細かく聞き、納得した上で手術を受けました。

一人暮らしの僕には大変だと先生に言われましたが、両目を同時に手術しました。手術当日、手術台に乗り局所麻酔の点眼をすると、目を閉じないようにするものでまぶたを固定しました。寝ている上から機械が近づいてきて、先生が「あの赤く光っている点を見てて」と説明してくれました。「あぁ、とうとう始まる〜」と、言われるまま赤い点を見ていると「はい終わり」。「え!?」前もって手術の説明を受けていたのにドキドキして頭が真っ白になっていたようで、30秒もあっという間に感じてしまいました。「はい、次反対の眼」。今度は様子をちゃんと見ていると確かに手術は30秒くらいで終了していました。手術後目が見えなくなると聞いていましたが、そうではなくて、涙が溜まった時みたいにぼやけた感じになります。手術した目は清潔なガーゼで覆ってしまうので結局何も見えなくなりましたが。

手術は日帰りなので終わったらすぐ家に帰れます。家に帰ってから、やっぱり片目ずつ手術しておけばよかったと反省したのが、部屋の様子がぼやけていて見えないことです。どうしようかと困りましたが、「手術前もメガネをかけないとぼやけていたし」と前向きに考えて過ごすことにしました。あと手術後困ったことは痛みです。痛み止めの点眼薬をもらっていたので痛くなったら使えばいいのですが、少ししかなかったためできるだけ我慢して使わなければならなかったのです。痛みの度合いは個人差があるのですが、僕はすごく痛い方だったみたいでした。

 次の日の朝、痛みで目が覚めました。けれど、点眼薬をさしたらすぐ治まり、テレビを見ようとスイッチを入れたら磨すりガラス越しに見ているみたいに感じます。誰が出ているのか声でしか分かりませんでした。さらにケイタイなんて、画面どころか数字もよく読めませんでした。

一番驚いたのが、まぶしさです。手術が終わって帰宅したときは夜だったので気がつかなかったのですが、太陽の明かりがすごくまぶしいのです。カメラのフラッシュ並みに感じます。サングラスをしてもまぶしくてほとんど目を閉じたままで過ごしました。パソコンの液晶画面もまぶしくて大変でした。1日何とか過ごし、夜風呂にはいるときが大変で、目に水を入れないようにしなければならず、風呂に入るのに水中めがねをして入ります。目の痛みはまだ若干あり、違和感もある程度続いています。

冬休みに入り授業もバイトも休みだったので家でごろごろしていましたが、毎日の変化にすごく驚きました。みんなだいたい4日くらいで仕事ができるようになりますと聞いていたのですが、僕は回復が遅く6日くらいかかりました。痛み止めの点眼薬も手術後1日目は30分に1回だったのに、2日目は1時間に1回、3日目は2〜3時間に1回と徐々に痛みも取れ、見え方もすごく変化して、手術後2日目の朝にはパソコンの文字サイズを72ポイントでもぎりぎり見えていたのが、その日の夕方には48ポイントでも何とか見えるようになり、3日目にはテレビの角にでる時計の文字も読めるようになりました。朝から夕方にかけて回復している事に驚きました。5日目の朝、寝起きで時計が見えたときは感動です。しかし、まだ少し磨りガラス越しで見ているような感じがありました。しばらく遠視の状態になると先生から説明があったので安心して変化を楽しみました。毎日遠視が回復していきますが、近くのものが見えないので先生に遠視のメガネを買った方がいいか相談したら、100円均一に行って老眼鏡を買ってくるよう言われました。手術後一気に回復した見え方も、変化がゆっくりになり、次の発見がありました。夜街灯を見ると、雨の日の車から見た街灯みたいに明かりだけぼやけて見えるのです。グレアと呼ばれるものらしいのですが、最初すごく気になりイライラしました。このグレアもしばらくするとなくなり普通の明かりの見え方になります。

今回手術を受けて、とにかく生活が楽になったと言うことです。手術後はぼやけて生活しづらかったですが、それもつかの間でした。一人暮らしなので片目ずつ手術をすればもっと術後も楽だったので、みなさんには片目ずつ手術することをオススメします。それまで使っていたメガネと使い捨てコンタクトが余ってしまったのがうれしい悲鳴です。これから使うメガネや、コンタクトの値段と手術の値段を考えると、みんなに是非推薦します。

参宮橋アイクリニックの先生をはじめ職員の皆様、ありがとうございました。

  

安い良い買い物

田村 正代 30歳 主婦

近視矯正手術を受けてあっという間の1年間でした。おかげさまで今では1年前まで目が悪かったことなどすっかり忘れています。

1年前に友人に紹介されて参宮橋アイクリニックへ行きました。待合室では手術を受けた翌日の方が沢山いらして、みなさん一様に辛そうで、手術を受けることが怖くなったことを覚えています。検査の後先生に診察していただき、私の目は強度の近視であること。手術をしてぎりぎり眼鏡無しで生活できるのではないかということを言われました。

私としては多少眼鏡をかけることはかまわない、ただコンタクトレンズはもうしたくないというのが本心でしたので、痛みがあるのが少し怖かったのですが、すぐに手術の予約をしました。手術は2002年の4月に片方ずつ2週間空けて行いました。当日は手術の説明や点眼薬の説明などにかなり時間が費やされます。それに対して手術にかかる時間はあっけにとられるほど短いもので、緊張するのもばかばかしくなってしまうほどです。問題の痛みは、手術前に職員の方から「女性でお子さんのいらっしゃる方はそれほど痛がられません」と言われたのを信じ込んでしまったためか、家に帰ってからしばらくしてもさほど痛みは感じませんでした。翌日も平気な顔をして診察に行き先生にほめられたほどです。もう片方の眼の時も同様でした。「若い男の子が痛みに弱いんです」と先生の言われたとおり、同じ日に受けた患者さんでも男性のほうが、苦しんでいるようでした。

ともかくあっという間に1年が過ぎ、右0.9、左0.という日常生活には十分すぎる視力を手に入れ、悠々自適に生活させていただいております。先日も夕方から夜にかけて地震が続き、これが手術前で、子供たちを連れて逃げ出すときに、もし自分がコンタクトレンズをしていない状態だったらと思うとぞっとしてしまいます。手術前は「多少金額が高いかな?」なんて思いましたが、今の生活を考えるととても安い良い買い物をしたと思っています。

カメラマンの憂鬱

増田博明(53歳)カメラマン

メガネをかけてファインダーを覗いたりすると、像の大きさが小さく映って見えたり不自由でした。また、スタジオ撮影が主な仕事で細かい修正作業をしなければなりません。メガネをかけていると、レンズのコーティングの為に実際の色とは微妙に違って見えるのです。そのため不自由でも裸眼で仕事をしておりました。

若い頃はコンタクトレンズハード・ソフトも試してみたりしましたが、手入れが面倒だったり、近くの作業をする時は眼が非常に疲れるので使用するのを止めました。

手術を受けて1年半経ちましたが、右0.8、左1.0の視力になり本当に良かったと思っています。手術前は左右とも0.01のすごい近視だったのですが、今では目が悪かったことを忘れて仕事をしています。

世界に広がる旧ソ連の科学技術

サンクトペテルブルグ建都300年記念祝典に先立って、ロシア文部省が旧ソ連、ロシアの大学卒業生の為の国際フォーラムを開催しました (200351416日、モスクワ市)

 奥山院長は、その際に人類初の女性宇宙飛行士 ワレンチナ・テレシコーワさんと懇談し、旧ソ連の科学技術は宇宙開発、医学、数学、物理学分野で広く世界に受け入れられていることを確認されました。

 米国のスペースシャトル「エンデバー」墜落で、国際宇宙ステーションと地球を繋げているのも、現在はロシアの宇宙飛行船がその役を担っています。

「テレシコーワさん、人類初の女性飛行士40周年 (19636)、おめでとうございます。」

「奥山先生、日本の近視手術20周年(19836月)、オメデトウ。」


NEWPRK、5つの利点

近視矯正手術はRK→PRK→レーシック(イントラレーシック)→NEWPRKと進化しました。参宮橋アイクリニックでは、その中でももっとも安全なNEWPRKを提唱しています。

メスを使用しない
 NEWPRKは、角膜にメスを入れないレーザーのみで行う、もっとも安全な近視矯正手術です。また、たった30秒で近視の改善が可能です。

院長も受けました

手術は、近視矯正手術を実際に受けた院長自らが行います。

当院は1983年に日本で初めて眼科医による屈折矯正手術の専門医療機関として創立されました。当院では以来RK・PRK・レーシック(イントラレーシック)・NEWPRKを実施し、18,000余例を施術しています。

角膜の強度が強い

薄い角膜にも手術が可能であり、特にスポーツ・格闘技に向いています。LASIKのように弁の作成をしないので、床に当たる部分の強度が強いのです。

大きなレンズ
 大きな蒸散面は夜間や暗いところで、大きく開く瞳孔の影響をうけにくく、グレアを少なくすることができます。フラップ作成に左右されないので、大きなレンズを作ることができるからです。

強度近視・乱視に最適
フラップの作成がないため、角膜の強度を残したまま、厚く蒸発させることができるので強度近視の矯正に向いています。

編集後記

当院は今年20周年を記念し、ホームページをリニューアルすると共に、検診、初診の予約もホームページ上で出来るようになりました。クリニック休診・休暇情報等、併せてご利用ください。

http://www.sangubashi.com/

また、ホームページでは相互リンクも募集しております。ご連絡ください。

200347日、11 50から、TBSテレビ「ベスト・タイム」で参宮橋アイクリニックの「マウンテンエアー」が紹介されました。

以前にも「友の会ニュース」ではご紹介して参りましたが、現在流行している「高酸素エアー」を利用したリラクゼーションと共に、低酸素を利用した「マウンテンエアー」が、ドライアイの治療、スポーツ等の心肺機能の強化トレーニングに有効であるという紹介がされました。参宮橋アイクリニックではその他に、気管支喘息、花粉症、アトピー性皮膚炎の改善にもおすすめしております。是非ご利用ください。

レーシック、レーシック・フラップレス等近視矯正手術の最新情報をお届けする近視手術友の会のホームページ
体 験 談

三田村邦彦さん
手術をうけて→

水道橋博士
20年前にRK→


藤田耕司さん
南極探検隊→


水口憲一さん
コンタクトが→


吉田みのりさん
近視手術を→


畠山多恵さん
高校生から→

その他の体験談