RK・PRKニュース No11 1996年 11月
奇跡の生還
1996年6月27日、アイオワシティのダウンタウンの見通しの悪い交差点で、バンと自転車による出会い頭の衝突事故があった。バンは自転車の前輪に当たり、自転車に乗っていた女性はバンの下敷きになり、何フィートも引きずられ、バンが止まったときは女性の頭にタイヤが触れていた。自転車に乗っていた女性はアイオワ大学の大学院生、H・Rさん。Hさんはアイオワ大学病院に救急車で運ばれたが、危篤状態であった。 〜1996年6月28日付け、デイリー・アイオワ紙より〜
Hさんは両眼とも、’93年7月にPRK手術、,94年6月にRK手術と、計2回手術を受けていた。手術に反対している医師達が挙げる最大の理由は、外傷で眼球破裂が生じやすいと言うものだが、それは根拠がないということが実証されたのである。
ちょうど三カ月前、私は交通事故に遭いました。自転車に乗っていたときに、大さなバン(小型バス)と正面衝突したのです。見通しの悪い四つ角だったため、お互いに相手が見えず、かなりのスピードでぶつかったようです。目撃者の話によると、私の身体は空中高く跳ね上がった後、顔から地面に落ち、うつ伏せに倒れたのですが、さらにそこに、急ブレーキをかけたバンが来て、私の上で止まる形になりました。バンの前輪が頭の真上で止まり、まるで風船の上に重りをのせると凹むょうに、頭は陥没していました。慌てて降りてきた運転手が事態に気づき、車に戻ってバックさせ、ようやく頭がタイヤの下から出てきました。私はもちろん意識不明で、すぐに救急車で集中治療室に運び込まれました。ひどい事故なので命は助からないと思われ、翌朝の地方紙では一面記事となり、テレビやラジオでも報道されました。
ところが、奇跡的に命拾いをしたのです。おでこに20数針を縫い、鼻は砕けて鼻孔が塞がれ、歯も2本抜け3本折れ、鼻・口・顎と何針か縫いました。が、不思議なことに脳には全く異常がなく、目も見えるのです。普通、頭蓋骨が耐えられるのは60キロまでだと聞いています。なのに、何百キロもの車のエンジンが真上にあったにもかかわらず助かったのは、やはり奇跡としかいいようがありません。怪我からみてもわかるように、頭部にはかなりの重圧が掛かったものと思われます。私は、奥山先生に、3年前にPRK手術、2年前にRK手術をして頂いたのですが、これほどの重圧が掛かっても眼球は破裂しませんでした。たとえ命が助かったとしても、大学院で美術の創作活動をしている私にとって、視力を失うことは何よりも耐えがたいものとなっていたはずです。私の体験を見てもはっきりとわかるように、手術のせいで目の抵抗力が低くなることはありません。ですから、安心して手術を受け、ひとりでも多くの人に視力を回復する喜びを味わって欲しいと思っています。
1996年9月26日 H・R
私のRK体験
大空への夢叶う
在カリフォルニア H・Sさん (31歳)、91年RK手術
おかげさまで、アジア系資本の航空会社に副操縦士として就職することができました。私の場合は、どうしてもパイロットになりたくて、社会人で再挑戦しました。
1年半サンフランシスコの航空学校に通いました。天候によってはずうっと飛べないこともあって、予定よりも長期になってしまったのです。講習はすべて英語で、専門用語を覚えるのも大変でした。けれども、わたしはプロのパイロットとして、現地就職をするつもりでしたから、英語の勉強はやってもやっても満足できるということはなく、今でも勉強の毎日です。
米国のFAA(連邦航空局)は、RK手術を受けたパイロットを認めていますが、各国で運輸省の基準が違うので、直接数カ国に出向いて聞いて回ることもしました(大使館で聞いてもわからなかったのです)。
アメリカで飛んでいる航空会社を数社受験しました。試験は学科と口頭試問です。私が受かった会社では、人事担当の方が日本人びいきで、日本人は真面目だからという理由で採用してもらえたようでした。
長い回り道をしてきたような感もありますが、ようやくパイロットとしてのスタートラインに立つことができました。(談)
夢、実現しました
尼ケ崎市 K・Yさん (21歳)、95年2月RK手術、術前近視度数左右とも-2ジオブター
ありがとうございました。遂に念願の競艇選手第二次入所試験に合格することができました。本当に心から感謝しています。
体験、私見
アクティブスポーツ代表 徳本長史 89年秋RK手術
私はボディビルとウインドサーフィンのインストラクター出身で、現在は山口県でアクティブスポーツという名前のボディビルジムと、アウトドア用品店を経営しています。
夏はジェットスキー、サーフィン、カヌー、ヨット、モーターボート、ボディボード、ウェイクボード等のマリン用品、冬はスノーボードの専門店になるため、各種スポーツを指導するという立場にあり、近視の私は、常々メガネの煩わしさを感じていました。ところが1989年秋、書店で立ち読みしていた週刊誌に視力回復手術の記事を偶然発見、驚き、その5分後には、参宮橋アイクリニックの検査の予約を取りつけていました。
まずは検査の結果、約10倍の視力まで上げられるとの説明を受け、その場で3カ月後の手術の予約をしました。
当時私はヨットレース等に瀕繁に出場しており、可能ならば視力2.0を希望していたのですが、奥山公道医師より、右目は視力0.04のため不可能、左目は0.1なので可能性はあるものの、左右の視力バランスが悪いのと、40歳を過ぎて老眼が進行したときに本が読みにくくなる等の説明を受けた末、右目は16本、左目は4本の切り込みをメスで角膜にいれることに決定しました。その結果、術後右目1.0、左目1.2の視力に蘇り、現在に至るわけです。
15年ぶりにメガネから開放された気分は筆舌に尽くしがたく、過去の人生最高の喜びの一つです。
私の個人的な喜びはこのとおりですが、私の店の顧客の中に、パイロットの卵である航空自衛隊防府北基地所属の学生が数名おり、彼らの話をご紹介しようと思います。
それによると、航空身体検査では裸眼視力が1.5未満になると、どんなに成績がよくても、パイロットへの道は閉ざされ、すでに操縦免許を取得している者ですら、地上勤務に下げられてしまうというのです。中には絶望のあまり、自衛隊を除隊する者もいるといいます。戦闘機の操縦士を1人養成するのに数億円もの大金を、防衛庁と防衛施設庁は捻出しているそうですが、奥山医師の技術を拝借すれば、政府も防衛費を随分削減できるのではないでしょうか。
日本で初めて視力回復手術を一般に広めた奥山医師の功績に対し、何故厚生省及び日本国政府は評価しないのでしょうか。
すでに全国各地で、技術の未熟な医師が不当に高額な費用(料金?)で視力回復手術を行い始めた挙げ句の果てに、過度の遠視を引き起こなどの弊害も出ています。.
また視力回復手術に対して、技術的には特別困難とも思えないのに医療保険が認められないのは、最近評判の悪い厚生省の怠慢と、眼鏡業界との癒着が原因ではないでしょうか。
薬害エイズ問題で大鉈を振るい、大いに名声を高めた山口県出身の菅直人厚生大臣には、次にこの問題で再び大鉈を振るってもらいたいと思います。
そしてやがて山口県出身で8人日の総理大臣となることを期待したいものですが、その時には、奥山医師こそ、日本中の眼科医の視力回復手術の指導者となるべきであると思います。
「第四回日露医学交流国際シンポジウム」開催
日露医学交流財団主催による「第4回日露医学交流国際シンポジウム」が9月3日から8日までロシア連邦イルクーツク市で開催されました。
日本側出席者は百名、ロシア側2百名、その他アメリカ、フランスからも出席がありました。内科、外科、眼科、産婦人科、小児科、歯科等、全分野にわたって発表がありました。9月5日には眼科部門で、参宮橋アイクリニックの奥山公道院長が、「日本における近視矯正手術の発展」をテーマに、13年間の実績に基づいた発表を1時間にわたって講演しました。
ご希望の方に、この講演パンフレット (英、露、和、3ケ国語併記)を実費(300円)でお頒けしています。430円(送料込み)を郵便振替にてお送りください。
郵便振替番号 00170-1-168199
アンケート調査結果 術後3カ月〜13年の愚者さん100名に対し、電話による聞き取り調査を行いました。
(実施日1996年10月) 1.手術を受ける前、何で矯正していましたか。 コンタクト 42名
メガネ 56名 何も使用していなかった 2名
★どういう点が具合が悪かったのですか。 ●コンタクト 1.取り扱いが不便 2.日に合わない 3.ドライアイ
●メガネ 1.度が強くて、レンズが重い 2.うっとうしい
2.手術を受けていかがでしたか。 満足 47名 やや満足 36名 やや不満 12名 不満 5名
3.やや不満、不満と答えた17名に聞いた不満の具体的内容 1.思ったより視力が出ない 2.左右差が出た
★どのように対処していますか。 メガネ 8名 コンタクト 4名 何もなし 5名
★さらに矯正が可能ならば、手術を希望しますか。 希望する 6名 希望しない 8名 わからない 3名
4.術後、光が眩しかったり、光が放射状に見える現象は、いつ頃まで気になりましたか。 気にならない 36名 1カ月14名
3カ月14名 6カ月18名 1年 14名 それ以上 3名
5.他の医療機関で、矯正手術を受けたことに関連して、不安な経験をしたことがありますか。 ある 6名 ない 94名
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